飲食店経営で楽しんで稼ぐ!!

オーナーシェフの河瀬です。

洗い場物語 第二話

次の洗い場は焼肉屋だった。

 

焼肉屋で働いたことがある人は分かると思うが、洗い物の量がえげつない。

洗い場ポジションになったら4時間くらいひたすら洗い物。服はビショビショになり、手はお風呂に入ったみたいにふやける。

 

忙しく洗い物が多い飲食店における洗い場というポジションは非常に重要である。

洗い場をやる人によって店がスムーズに回るかどうかが決まるのだ。

 

洗い物が遅い人が洗い場に入ると、

 

食器やジョッキが使いたいときに足りない

返ってきた食器が山積みになりスペースがなくなる

その結果仕事効率が悪くなる

店長がイライラして空気も悪くなる

 

といった影響が出てしまう。

地味なポジションだが、縁の下の力持ち的な位置にあった。

 

焼き肉屋の洗い場でやっかいなのは『ご飯の茶碗』だ。

一般の家庭でもお母さんが『ご飯の茶碗は水につけておいてよ!』と声を荒げるシーンがよく見られる。

食べ残された米はカラリと乾燥して頑固にへばりつく。スポンジでこれらを洗い落とすのは非常に難儀でありイライラする。

これをどう攻略するか?が肝である。

 

僕はご飯の茶碗が返ってきたら直ぐにお湯に浸け、それらを重ねてシンクの隅に置いていた。

茶碗のストックがなくなるギリギリまでつけ置いて、もう茶碗がなくなる!というタイミングで洗い、補充。この流れがピタリとハマると気持ちがいい。

 

洗い場に立っていると店の流れが全体的に見えるので、こんな感じで次に足りなくなるモノは何か?を考えていた。

 

他にも『生ビールのジョッキ』は優先順位の高い洗い物だ。

焼き肉屋は生ビールがよく出る。ジョッキはどんどん回転させないとすぐ足りなくなってしまう。

しかも洗浄機にかけると熱を持ってしまうため洗ってすぐは使えない。冷やす時間まで逆算して食洗機に入れなければならない。

生ビールのオーダーが入ったのにジョッキがない!というのは飲食店あるあるの1つである。

洗い場にとってこの状況を作ったら負け。店をスムーズに回すためにも避けなければならない。

なのでビールのオーダーを気にしておき、ジョッキの数が少なくなってきて、もうすぐ足りなくなるな…というタイミングで洗い、冷蔵庫へ。という具合。

 

足りなくなりそうなモノをあらかじめ予測して先回りする。この考え方は後々非常に役立った。

 

焼き肉屋のバイトを初めて一年くらいした時に、パスタ屋のバイトも始めた。

100席近くあり、土日ともなるとランチは2回転するめちゃくちゃ忙しい店であった。

最初のポジションはドリンカーという飲み物をつくる仕事。ドリンカーの仕事にはもれなく洗い場の仕事もついてくる。

焼き肉屋では洗い場に入ると洗い物をひたすらやればよかったが、この店は押し寄せる洗い物にプラスで飲み物も作らねばならない。

 

ゆっくりとやっていたら絶対に追いつかない。

これまでの洗い場テクニックを駆使して必死で洗い物をやった。

 

昼はパスタ屋で洗い物、夜は焼肉屋で洗い物、1日8時間は洗い物をやっていた。

冗談抜きで滋賀県で1番洗い場スキルが高いと自負していた。

体は洗い場に適応し、皮膚が強くなり、まったく手荒れをしなくなった。

 

食器を洗うために生まれてきた。

 

そんな感じであった。

 

 

つづく

洗い場物語 第一話

飲食店の『洗い場仕事』と聞いて皆さんはどんなイメージを持たれるだろうか?

 

『新人がやる雑用でしょ。』

と思われた方…その通り。

 

『洗い場』からスタートを切った料理人は多いはずだ。

 

『洗い場』は奥が深い…

『洗い場を笑うもの、洗い場に泣く』という格言もある(ない)

 

洗い場は飲食店の心臓部。その裏側には壮大な物語がある。

 

今日はそんな『洗い場』のはなし。

 

 

19歳の夏。僕は初めて洗い場に立った。居酒屋でのアルバイトだった。

 

小さなお店で、洗い場もめちゃくちゃ小さかった。洗浄機もなし。だから、引き上げてきた洗い物は一瞬でシンクを埋めてしまう。

店が狭く洗い物を置いておく場所がないため、シンクに入りきらない洗い物はカゴに入れて店の外にいったん持っていき、手が空いたら洗う。そんな感じ。洗い場環境としてはかなり劣悪であった。

 

初めての飲食店アルバイトで慣れないことも多く、僕は緊張から皿を割りまくった。

焦ってしまい更に割った。かなりひどかった。

洗い場の仕事がまともに出来ないと、なかなか次の仕事を振ってもらえない。

 

店が忙しくなると、何も出来ない僕は洗い場に追いやられる。洗い物しか出来ることがない。それすらまともに出来ない。

そんな僕を見た先輩から『お前は洗い物しにこの店きてるんか?』と言われてめちゃくちゃ悔しかったのを今でも覚えている。

 

店長からの当たりも冷たく『仕事のできないネクラなやつ』と思われていたように感じる。

バイトに行くのが嫌で仕方なく、仮病を使ったり無断欠勤したりと酷かった。

 

しかし、バイト先に好きな女の子ができたことをキッカケに、僕はやる気全開で頑張った。洗い場どころか料理に接客、ドリンク場と全ポジションを精力的にこなした。

自分で言うのも恥ずかしいが、その店ではエース的なところまでいったと思う。男とは至極単純である。

 

 

話が逸れてしまったが、ここで大切なことに気づく。

 

最初のステージである『洗い場』の仕事は先輩や店長から確実に見られている。

ここでアピールができるか否か?は、今後の仕事に影響する。

 

洗い場仕事が見られるのかはなぜか?

それはここに仕事の基礎が詰まっているからだ。

 

洗う食器の優先順位をつけらているか?

汚れはしっかりと落とせているか?

水や洗剤を無駄遣いしていないか?

無駄な動きがないか?

食器の扱いは丁寧か?

割ってしまった時の対応は?

などなど…

 

これは洗い場仕事だけに言えることではない。『雑用』と言われる仕事には往々にして仕事の基礎が詰まっている。

そういった点で『洗い場の仕事』は奥深い。

その人の仕事に対する考え方や性格が出る。

 

例えば『効率よく早く終わらせたい』と思っている人は、別の仕事に対してもこう考える傾向がある。

 

つまり『洗い場仕事(雑用仕事)』は『性格判断』に使われるということだ。

 

だから店長や先輩は、その人がどんなふうに洗い場仕事(雑用仕事)をするかを見ている。よーく見ている。

ここに気づき、クオリティの高い雑用をすることで信頼ポイントが貯まり、次の仕事を振ってもらいやすくなる。

 

逆に雑用仕事を馬鹿にして、ダラダラとやる人に次はない。一生雑用仕事で終わり。これは非常に恐ろしい。

 

つまり洗い場仕事はアピールする場なのだ。

見られているからこそ、きっちりとやれば『コイツ…デキる!!』と思ってもらえる。その逆も然り。

 

いやぁ、洗い場ってホント面白いものですね。

 

つづく…

僕がレストランで提供したいもの

僕は大学一年生のときに、バイクの免許をとった。ローンを組んで念願のバイクを買い、毎日乗り回した。

あの時、僕の世界は大きく広がった。

バイクに乗ってどこにでも行ける!!と思った。

ドラクエで船を手に入れて、大海原に繰り出した時の感じだ。ワクワクする。

 

実際バイクに乗って色々なところに行った。

色んな景色を見たり、美味しいモノを食べたり、スピード違反で捕まったり、道に迷って彷徨ったり、乗りすぎていぼ痔になったりもした。

自分の世界が広がったことで、体験できることがたくさん増えた。これは、『体験の数』=『自分の世界の広さ』と言い換えられる。

 

つまり『体験』する事でしか自分の世界は広がらない。

バイクの免許を取ってバイクを買っても、乗らずに眺めているだけでは世界は広がらない。

ここでいうバイクは世界を広げるためのキッカケにすぎない。この『キッカケ』が非常に重要だし、人生を豊かにするキーアイテムだと思う。

 

『食事』も自分の世界を広げるキッカケになりうる。

例えば、レストランで初めて食べたイタリア料理に感動した人がいたとしよう。

この瞬間にこの人の世界は広がる可能性がある。

もっと他の店にも行ってみたい!と食べ歩きをするようになるかもしれない。

自分も作れるようになりたい!と料理に目覚めるかもしれない。料理の道に進むかもしれない。

食事という体験から世界を広げる『キッカケ』を手に入れたことになる。

 

僕自身、食事という体験をキッカケとして世界は確実に広がった。

そして幸いなことに『食』というものは、体験しきった!という事は一生ない。

掘っても掘っても新しい体験がでてくる。

 

この仕事をしている限り僕の世界は広がっていく。そう思うと非常にワクワクする。

 

このワクワクを自分だけが独り占めするのはもったいない。

 

僕はレストランという場所で、

『食事』という経験を通して、

世界を広げる『キッカケ』を提供したい。

 

 

 

おわり。

サンタクロース

お疲れさまです。かわせです。

 

もうすぐクリスマス。クリスマスといえばサンタクロース。

 

『サンタさんに何をもらうか?』

子供たちにとってこれほど重大な問題があるだろうか?あるはずがない。

 

この季節、子どもとサンタクロースによる非常に高度な心理戦が各家庭で行われることは、言うに及ばない。

 

僕が子どもの頃も例外ではなく、毎冬サンタクロースとの心理戦が繰り広げられていた。

 

幼い頃はプラレールトミカなどが欲しく、その旨をつたない文字で手紙にしたためていた。そのリクエストはことごとく叶えられ、25日の朝、ぼくは毎年歓喜していた。

 

 

『サンタクロースは欲しいものを何でもくれる!!!』

 

僕は全幅の信頼をサンタクロースに置いていた。

 

小学生になるまでは、、、

 

 

小学生になったぼくはゲームがすごく好きだった。特に小学3年生の時に発売された『ニンテンドー64(通称ロクヨン)』は喉から手が出るほど手に入れたい代物であった。

…しかし、ゲームに対し懐疑的な河瀬家でロクヨンを手に入れる事はほぼ不可能。望みがあるとすれば、それはサンタさん。

 

『サンタクロースにロクヨンをもらう』

現実的に考えてそれしかなかった。

 

小学3年生のクリスマス。ぼくはロクヨンが欲しいという願いを手紙にしたため、それを枕元におき、ドキドキしながら朝を待った。

 

しかし、その願いが叶えられる事はなかった。

その年サンタさんがくれたのは『ジャファーの逆襲』のビデオと、ガンプラシャイニングガンダム)の2つだった。

 

ぼくは、、、とても嬉しかった。

夢中でガンプラを作り、ビデオは何十回も見た。

でも、ぼくが1番ほしいのはロクヨンなのだ。なぜサンタさんにリクエストが通らなかったのか??

考えられる理由は二つあった。

 

一つめは、日頃の言動の悪さによるサンタクロースからのペナルティ。

二つめは、リクエストの出し方が不十分であり、サンタクロースとの間に相違が生じた可能性。

 

一つめは僕のなかでないだろうという自信があった。弟の面倒もよく見ていた。

ということは二つめしか理由は考えられない。そうと分かればやる事は明確だ。ロクヨンが欲しい!!とサンタさんにしっかり伝える。それしかない。

 

きたる小学四年生のクリスマス。この年になるとしっかりした文章が書ける。手紙は完璧だ。誰がどうみてもロクヨンが欲しいことは明確。サンタクロースとの間に相違が生じるとは、とても考えられない。

更にぼくはダメ押しでウイスキーの小瓶を用意した。プレゼントを配るサンタさんへ、心ばかりのねぎらいである。

ここまでやったんだ。絶対にサンタさんへ想いは届いているだろう…

僕はその夜、ついにロクヨンが手に入るのだ、、、と思うとドキドキしてなかなか寝付けなかった。

 

しかし……その願いが叶えられる事はなかった。その年のプレゼントは『キャプテン翼ワールドユース編 全18巻』だった。

 

僕は、、、すごく嬉しかった。

なぜか14巻だけ抜けていたが凄くうれしかった。何度も何度も読んだ。

 

しかし、ぼくはロクヨンがほしかった。サンタクロースに対する憤りは知らずのうちに日々大きくなっていく。

 

『サンタクロースは一応俺のツボはついてくる。それはそれで素晴らしいのだが、、、』

 

ぼくのサンタクロースに対する全幅の信頼は、最早なかった…

 

 

 

 

 

『サンタの正体は親』

 

小学5年生にもなると、そう言い回る不届きな輩が目に入った。ぼくは信じたくなかった。それが事実ならロクヨンが手に入る事は未来永劫ないだろう。それだけは絶対に避けたい、、、しかし…

 

小5の冬。ぼくはサンタクロースの存在を否定してはいなかった。だが、ロクヨンをもらうという願いは半ば諦めていた、、、サンタさんへの手紙には『なんでもいいです』と書いた。

全てを受け入れるという覚悟の現れでもあったと思う。

 

翌朝、枕元にあったのは『はだしのゲン 全10巻』だった。

 

ぼくは、、、とても嬉しかった。

はだしのゲンは学校の図書館にしかないものだと思っていたが、それが全巻ウチにあるのだ。友達に自慢し、何度も何度も読んだ。

 

 

しかし…結局ロクヨンをサンタクロースが持ってくることはなかった。僕の願いは届かなかった。

『現実は思い通りにはならない』サンタクロースはそんなメッセージを伝えたかったのかもしれない。

 

2021年冬。今年もサンタクロースがやってくる。あなたは何をもらいましたか?

 

 

おわり

 

 

p.s

ドラえもんのび太の鉄人兵団』に登場する巨大ロボット、ザンダクロス。このナイスなネーミングはサンタクロースを文字ってドラえもんが名付けた。

ちなみにザンダクロスのモデルは百式

アタマのネジと限界とパティシエ

かわせです。今日は、

 

ネジは何本か飛ばしておくと、今後の人生で強みになるよなーという話です。

 

 

 

昨日の夜、近くのお菓子屋さんで働いている若い女性がカウンターに来てくれて、色々話しました。

 

 

その女性はまだ10代。高校を卒業してすぐ今のお店で働くため、遠いところから1人滋賀県に出てきました。

 

専門学校には行かずに、パティシエの世界に飛び込んだのです。度胸があります。

 

パティシエの世界はとても厳しい、とよく聞きます。しかもその女性が働いているのは全国でも有名なお店。

 

僕『一日どれくらい働くのですか?』

 

と質問すると、

 

彼女『7時30分から2時までです』

 

とのこと。

 

もちろん昼の2時ではありません。夜中の2時まで。これにはさすがにビックリしました、、

 

1日18時間30分働く。しかも休みは週一回。

黒い…黒いすぎる。俺が働いていた職場の黒さが白く霞むくらい黒い。

 

まだ働き始めて間もないのだけど、同期はみんな辞めちゃったそうです。そりゃそうだろ。

 

しかし彼女は『辞めるつもりはない』とのこと。

 

『そういう世界だと思って入ったので別に大丈夫です!』

と、笑顔で話しておられました。肝の据わった娘じゃのう…

 

 

さてここで、今日のテーマである『ネジを飛ばす』という話です。

 

一日18時間働くなんて一般的に見たらむちゃくちゃです。頭のネジがぶっ飛ぶ。身体や精神を壊す危険性もある。

 

僕は長時間労働を擁護するワケではないけれど、若い時に過酷な条件に身を置いて、頭のネジを何本かぶっ飛ばしておくのはいいことかもしれない。と思う。

 

もちろん、身体や精神を壊してしまっては元も子もないから、そこは上手く自分をコントロールしないといけないけれど、、

 

 

限界までやるしか限界を知る方法はない。

 

そんで『だめだ、もう限界だ、無理だ!!』というところまでやっても意外と大丈夫だったりする。『あれ?まだイケるやん』てなる。

 

その瞬間アタマのネジが一つ飛ぶ。

 

限界のラインが上がる。というか限界までの距離が近づくイメージ。

 

つまり何が言いたいかというと、

限界は自分が思っているよりも遥か上にある。アタマのネジを一本づつ飛ばすことで、限界に近づけるんだぜ。ってこと

 

で、実は限界なんてモノはなく、結局自分の中で勝手に決めてる場合がほとんどだ。

 

アタマのネジがしっかりついてると、自分の限界をかなーり低く見積もってしまう。これは非常にもったいない。実際の限界は遥か上にあるのにね。

 

彼女はまだ10代。同年代の子たちはネジをしっかりとつけて大学生活を楽しんでいる。それもまた良いことだ。なにが正解とかはない。

 

『自分の店を持つことが夢』だと彼女は言っていた。僕はなんとなく『この人はやるだろうな』と思った。だってもう何本かネジ飛んでるんだもん。

 

 

飛ばしたネジの分だけ夢に近づく!

 

 

では。

 

33歳で新しい音楽を聴かなくなる。を考える

最近、人は33歳までに音楽的嗜好が固まるという話を聞きました。

 

これは非常に興味深い話ですね。なんでかな??と、考えてみました。

 

結論、33歳で音楽的嗜好が固まる理由としては『感情を揺さぶる体験にリンクするプレイリストが完成するから』が僕の答えです。

 

説明しますね。

 

僕は今年で33歳ですが、最近は昔に比べて新しい音楽を聴く機会が明らかに減っています。

 

あなたはどうですか?

 

音楽は聴くけど、『昔から好きな曲』しか聴いてない。という方がほとんどかなーと思います。

 

で、その『昔から好きな曲』って25歳くらいまでの年齢で聴いてた曲じゃないですか?

 

 

むかし北海道をバイクで旅した時に、湖のほとりのキャンプ場で美しい夕陽を見たんです。

 

その時に聴いていた曲がジュディアンドマリーの『イロトリドリノセカイ』って曲だったんです。

北海道の美しい夕陽と曲があまりにマッチしていて、何だがよく分からないけど涙が出てきました。

 

『イロトリドリノセカイ』を聴くたびに僕はその時のことを思い出します。ジュディマリの楽曲で1番好きな曲です。

 

 

こんな感じで、好きな曲を聴いた時には必ず『感情を揺さぶる体験』もセットでついてきます。

で、25歳くらいまでってそういう『感情を揺さぶる体験』ってたくさんある。

 

 

 

当然そこにリンクする曲もたくさんあって、イコールその曲が『好きな曲』となる。その曲は30になろうが40になろうが、ずっと大切に聴きますよね。

 

失恋した、感動した、嬉しかった、楽しかった、寂しかった、いろんな感情を揺さぶる体験があって、そのときに聴いてた曲がその体験とリンクする。

 

で、30過ぎると『感情を揺さぶる体験』にリンクするプレイリストが自分の中で出来上がる。それは人生のイベントを大方消化したと言い換えてもいい。

 

さっきの話でいうと、今後『綺麗な夕陽を見て感動した体験』をしている時は、自分のプレイリストから『イロトリドリノセカイ』を引っ張り出して聴けばよい。

あえて新しくその場面にリンクする曲を探す必要はもうないのだ。

 

『感情を揺さぶる体験』にリンクするプレイリストが完成すると、人は新しい曲を聴かなくなるのだ!!

 

そもそも、『新しい曲』を聴くのって実はかなり体力を使う。

カラオケで自分が知らない曲を聴いてる時間ってキツいけど、そんな感じ。

 

これどーゆうことかっていうと、33歳超えると『新しいものを受け入れる体力』みたいなものが年々無くなってくる。ってことにもなる。

 

この辺からオッサン化が始まる。

 

良くない!これは良くない!!

 

『新しいものを受け入れる体力』が衰えないようにこれからも新しい音楽を聴くぞ!!

 

 

では。

ロックンロールと料理と表現すること

ロックンロールは好きですか?

 

僕は大好きです。ロック。

 

なぜ好きかというとカッコいいから。では、なぜカッコいいのか?そもそもロックってなんだ??

 

僕はずっーと考えていました。そんで一応自分なりに答えが出たので発表します。

 

ロックとはなにか…?と聞かれたら、それは〝カッコ悪いもの〟であります。〝ダサさ〟と言い換えてもよい。

 

カッコ悪さに内包されたカッコ良さ。それこそがロックなのだ。

 

ロックってダサい。

怒りとか、憤りとか、そんな鬱屈としたよく分からない感情や、目を背けたい自分のドロドロした部分。そんな〝なんかよく分からないけどモヤモヤする感じ〟それをエレキギターにのっけてぶちかますんですよ。バカヤロー!クソやろー!っていってぶちかます。八つ当たりです。音楽の暴力。

 

そんでこの〝なんかよく分からないけどモヤモヤする感じ〟って誰もが持っている。夜中に意味もなく絶叫したくなるあの感じです。

 

そういう叫びたい夜にイヤホンから聴こえてくるものこそロックンロールなのです。だから聴いてる側もカッコ悪い。ポロポロ泣いちゃったりします。

 

ロックはこの〝なんかよく分からないけどモヤモヤする感じ〟を音にして表現する。

 

自分では表現できなかった感情をロックは変わりに表現してくれる。

 

僕は〝表現すること〟にはカッコ悪さがついて回ると考えます。表現するって自分をさらけ出すことだから。勇気がいる。人前で裸になるようなものです。恥ずかしいしカッコ悪い。

僕を含めて多くの人が、当たり障りないことばかり言ってしまう。これは表現することから逃げている。

 

でもたまにチ○コ丸出しで、すべてさらけだしてぶつかってくるヤツがいる。その姿はとてもカッコ悪い。

 

そうやってカッコ悪いながら、それでも自分を表現する人を見たときに生まれる感情が〝カッコ良い〟なのです。

 

それこそロックだ。

 

僕は料理人だが、料理人にとって『料理』は自分を表現する手段だ。皿の上に自分の人生をさらけだすのが料理人だ。それは時に、自分の未熟さを晒すことになるかもしれない。カッコ悪くあるかもしれない。これだってロックだ。音楽か料理かの違いでしかない。料理人として表現を追求している人はほんとにカッコいい。自分もそうでありたい。

 

『生きているってことはカッコ悪いかもしれない』ってマーシーも歌っている。生きている限り表現することから目を背けてはいけない。カッコ悪くても逃げてはいけない。カッコ良くありたいなら。

 

もちろんこんなブログを書いている僕もかなりカッコ悪い。つまり俺はロックなのだ。

 

ロックンロール!!

 

 

では。